『紙魚の手帖』にみる、ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』日本語版の産みの苦しみ
ウンベルト・エーコ氏が先日、84歳で亡くなられました。
リンク: ウンベルト・エーコ氏死去=「薔薇の名前」、84歳-伊哲学者 http://www.jiji.com/jc/zc?k=201602/2016022000155&g=int
詳しいわけでも、しかも代表作の『薔薇の名前』すら、自分はちゃんと読んだことがありません。
でも、手元の『紙魚の手帖』をめくっていたら、「あれ?」となるくらい、ウンベルト・エーコ、そして『薔薇の名前』の名前(ややこしい)が出てきました。
今回はそれをまとめましたよ、というお話しです。
あ、念のためですが『紙魚の手帖』とは、創元推理文庫に付けられていた、「投げ込み」と呼ばれる小冊子です。
このブログでは、だいぶ以前にその「投げ込み」になる前の、前日譚のようなものを紹介したことがありました。
自分も、これを全て持っているわけではないので、悉皆調査の結果ではないこと、お含みおきを。
さて、手元の紙魚の手帖において、初めてエーコ、そして『薔薇の名前』に言及があるのは次の13号でした。
『薔薇の名前』
(略)
その<朝日ジャーナル>新誌面第1号市場で、中井英夫氏がウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を紹介されている。実は数ヶ月前、別の要件(ママ)でおうかがいした折、そういえばイタリア版の『虚無への供物』ともいうべき作品が今、話題になっているんですよ、とお話ししたところ、非常な興味を示された。翌日、お電話をいただき、速く読んでみたいので英訳版が手に入らないかしら、といってこられたのである。
20数年前、初めて『虚無への供物』に接したときの感激は忘れることができない。塔晶夫とウンベルト・エーコーー近年これほどスリリングな出会いはないのではあるまいか。
探偵小説ファン、及び全読書人諸兄、本年末、小社からお届けする予定の『薔薇の名前』にご期待ください。
確かに前半も興味深いですが、ここで注目してほしいのは、最後の一文ですね。
「本年末、小社からお届けする予定の『薔薇の名前』にご期待ください。」
時は1984年。まだまだ、余裕のある書き方です。
さて、次にエーコについて言及されているのは、7ヶ月後の20号でした。
ここには、「エーコ、自作を語る」という長い記事が紹介されています。 これは、同年、ニューヨーク・タイムズ・ブック・レビューの10/14号に掲載された、『我いかにして"薔薇の名前"を書きしか』というエーコのコラムの内容紹介でした。
いくつか引用します。
「舞台となる修道院を作り上げるためには、中世の建築に関するあらゆる資料を読み、螺旋階段の段の数まではっきり決めたのです。」
「(なぜ14世紀の、フランチェスコ会士を主人公に据える必要があったか)観察力と解釈力に優れた、できればイギリス人が探偵役としてほしかった。となるとフランチェスコ会士、しかもロジャー・ベーコンという科学思想の持ち主の出現以後の人間と言うことになり、14世紀を待たねばならないのです。」
「(1327年の11月なのは?)フランチェスコ会総長のミケーレ・ダ・チェゼーナがその年の十二月にはアヴィニョンの教皇のもとに行っているという史実があるからです。歴史小説は作者の創作と事実の絶妙な絡みが必要なのです。しかし、十一月という付きにエーコは悩みました。豚を殺すには、もっと寒い季節でなければならないのだそうです。十一月では早すぎるのです。なぜ豚を?豚の血を溜めた大甕に死体が逆さに投げ込まれなければいけないから。黙示録の第二のラッパがそう告げているから。黙示録を書き換えることはできません。エーコは山の上の修道院を舞台に選ぶことにしました。そこなら十一月にはもう雪が降る。」
特に、日本語版の刊行時期については書かれていません。
13号の時点ではこの年末には出るはずだったので、ちょうどこの号が出た頃の出版を予定していたはずですが、まずはここで執筆背景を紹介して読者の期待をさらに刺激しようということだったのかも。
これが、年をまたいで1985年となると、文章にこめられる感情が少し変わってきます。
「さて、お待ちかねの『薔薇の名前』は、密度の濃い内容とボリューム、その他諸般の事情が重なり、なかなか刊行にこぎ着けずにおります。しばらくお待ちください。(それにしても横文字から横文字への翻訳で良い欧米諸国が羨ましい限りです)」
紙魚の手帖 22 (1985. 3) 「'85 年度単行本刊行予定」
恨み言のようにも読めるカッコ書き。。。
時間は下りまして、次は1987年となります。
この33号をもって、「紙魚の手帖」のメインコーナーである座談会のメンバーが交代することになり、その最終回となっています。
その最後の最後、創元社へのメッセージを各メンバーが残しているのですが、その中にお一人いらっしゃいました。
天野正之 (公務員) いやぁ、終わった、終わった。最後の最後に東京創元社さんへ。"ドルセイ"をよろしく。
稲鶴敏彦 (自然観察指導員) ほんと、一年以上出てないよ!
清水貴久子 (漢方薬会社勤務) 「わたしは『薔薇の名前』を待ちこがれているんですが。」
今枝千秋 (主婦)) 本格ものを是非!
新村行代 (テレビ局勤務) おっとりと構えてないでエルモア・レナードを。
天 それでは皆さん、ありがとうございました。
『紙魚の手帖 33』 (1987. 1) 「アガサにおまかせ」
22号から約2年経ってもやはり出てないことが窺われます。
さらに月日が経ち。
「先号で瀬戸川猛資も激賞しておられた映画『薔薇の名前』(ヘラルド・エース配給)は、(中略…公開している都市の紹介)。ぜひ一度ご覧ください。」
『紙魚の手帖 40』 (1988. 3) aux lecteurs
とうとう、翻訳がでないままに映画の日本語版が公開されてしまったようです。 気付けばもう1988年。「本年末には出る」と書いたときから4年の歳月が流れていました。
※瀬戸川猛資さんの文が載ったという39号は未見のため、映画がどう紹介されたかここでご覧に入れられないこと、ご了承ください。
そして、、、
紙魚の手帖は、次の41号(1988. 5)で終了となってしまいました。
やはり、「それにしても横文字から横文字への翻訳で良い欧米諸国が羨ましい限りです」とあったように、数々の宗教関係用語の消化や、その訳語の決定などには大きく時間を割くこととなったようですね(それだけではなかった、という意見も少なからずあるようですが…)。
さて、その後、『薔薇の名前』は無事に東京創元社から出版されました。出版は、1990年。『紙魚の手帖』での言及から少なくとも6年、実際にはもっと多くの時間をかけての翻訳だったことがわかります。
それでも、2016年現在は、この翻訳については賛否両論あるというのですから、本当に翻訳の作業は困難を伴ったのだろうな、と感じます。
『紙魚の手帖』で「出るよ出るよ」と書かれ続けながらも、とうとうその終刊までには日の目を見なかった、『薔薇の名前』日本語版。
小ネタではありますが、『薔薇の名前』の日本語版発行当時の状況を物語る情報として、まとめてみました。
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