佐藤集雨洞の洞穴

twitterで「創元推理文庫旧装丁bot」を動かしている佐藤集雨洞のブログ

ブレット・ハリデイ&ヘレン・マクロイ 「本とバンシー」 (第五回 1953/4/9)

 

Warren Eyster/ Far From The Customary Skies (Random House 3.75ドル)

 本の2/3をせっせと読み、根気強く探しても、作者が少しでも人間らしさを吹き込んだ登場人物を見つけることはできなかった。評者はそこで読むのをやめた。

 我々の考えでは、小説は、人間について書かれたものであるべきだ。この本は、人形についてのものになってしまっている。ただ単に他と区別するため、名前を書いたラベルが貼ってあるだけの人形だ。

 出版社が準備した宣伝文句は次の通り。   「戦時下の海洋における男たちを描いた作品では、最も優れたものの一つ!」

 出版社と編集者は、外部の人間の意見にも目を通したほうが良いよと教えてあげようか?

John M. Eshleman/ The Long Window (Ives Washburn Inc. 2.50ドル)

 これは作者にとって初めてのミステリー小説である。他のあまたの処女作と同様、この作品は、思い切って一冊本を出版してみようかなどと思わずに、もう一作か二作書いてみるまでは本棚の上の方に置いておくべきだったのだ。

 話の舞台はカリフォルニアに設定されているが、もし本当にカリフォルニアの官僚の世界でこんなことが起こっているなら、私たちは別の州の住民で幸運だ、ということになる。

 あけすけにそして端的に言ってしまえば、この作品はこんなものだ。意地の悪い妻が夜の間に絞め殺される。夫は、隣の部屋で酒を飲みすぎて意識を失っていた。警官たちはしばらく当てもなく歩き回った後、有罪の証拠などこれっぽっちもないのに夫を殺人の罪で逮捕し起訴する。警察には他に告訴できるような人物が見つけられなかったに過ぎない。州検察官も同じ理由で裁判に踏み切る。そして茶番の幕が開く。邪悪な麻薬組織が登場し、上流階級における様々な不義や、気取った会話の切り出し方が描かれている。


※コメントは付けないが、次のような発表を今受け取ったことをお知らせする。

ランダムハウス社は、クリスティーン・ジョーゲンセンによる本は一切出版いたしません。」

佐藤注: クリスティーン・ジョーゲンセンは、世界で初めて性別適合手術を受けたアメリカ人。この手術は、書評の前年、1952年に実施された。評者がどういう意図でここに引用しているのかは不明)

John Appleby/ Stars In The Water (Coward-McCann 2.75ドル)

 Stars In The Waterは緻密に練り上げられ、物腰柔らかに書かれた倒叙ミステリーである。

 テレビ番組では割愛せざるを得ない、性格描写における明暗の書き分け方を堪能するような読者であれば、本書を堪能することだろう。「心理的小説」という副題を付けている他の作品とは違って、プルーストやジョイスの二番煎じのような筆の運びは見受けられず、殺人犯や被害者について、その動機の謎を追う、という作品でもない。

 解決すべき難題は、物語序盤の、「その土地出身の人間が地元に帰ってくると、彼の家族や周囲の状況が不可解な変化に見舞われている」という、主人公の境遇そのものなのだ。この謎はかなりうまい手綱さばきで描かれていくので、読者の興味は、恐怖感が(全26章の内の)最後の8章を使ってぐんぐん増大し始めるまで、途切れることなく保たれる(これをメロドラマなしに実現するのは非常に難しいことだ)。

 これは、あまり例のない主人公、すなわち真実味のある殺人犯を、序盤の数章を使った、ゆったりとした構成で描き、我々の憐れみ、そして共感を誘っていたからこその効果だ。

 全体的に見れば満足すべき一冊であり、あえて挙げるとすれば、強烈な興奮が欠けているだけだ―今や古典のStealthy Terror(ジョン・ファーガソン)、『追われる男 Rogue Male』(ジェフリー・ハウスホールド)、Before I Wake(詳細不明)のような。とはいえこれは、作者が現実性を優先し、意図して緩慢な作風を選択した結果なのかもしれない。

 大戦以前のイングランドを知っている人間であれば、この本にある、イギリスのアメリカ化を証拠付ける描写の多さに目を見張るだろう。今やハムステッド・ヒースはニューヨークから空路で24時間もかからないのだ。使用人のいない家、働く妻たち、気まぐれな圧政、絶え間ない酒宴、劇場プロデューサーのルーフバルコニー…これらの描写は、文中によく出てくる「濡れたメンドリのように(=かんかんに怒って)」のようなアメリカ風の熟語よりも、雄弁だ。

 この本を読むと、あと100年も経てば、国というものが(法的な仮構物、政治的な慣例としては維持されたとしても、)各個別の文化の担い手としてはもはや存在し得なくなるだろうと、納得させられることになる。

Written with StackEdit.