佐藤集雨洞の洞穴

twitterで「創元推理文庫旧装丁bot」を動かしている佐藤集雨洞のブログ

S.D.G.と、それにまつわる人々(9) 「創造する喜びがそれだ」

 このように、「経歴」とはいかないまでも、石垣については少しずつ「創元推理文庫以外」の情報が集まりだした。そのタイミングで、ネット上の検索結果に、それまでは気付いていなかったものを見つけた。

書籍のタイトルを見た限りではあまり期待できなかったのだが、実のところ、その中身はそれまでの調査で初めて、情報らしい情報、文章の形で探し求めたものが紹介されていたのだったのだ。

その本のタイトルは、ロマン・ロラン讃歌』という。

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http://www.kobushi-shobo.co.jp/book/b122527.html (発刊元こぶし書房のページ)

 

詳しい方も居られるかもしれないが、フランスのユマニスト、作家として高名なロマン・ロランは、この日本にもその薫陶を受けた数多くの人々を残した。この本は、そのロマン・ロランの研究者、あるいは影響を受けた人々によるエッセイ・論考を集めた書籍である。

この中の一編として、「画家石垣栄蔵のこと」と題された文章が掲載されていることを、改めてgoogle 検索をしてみて、初めて知ったのだ。ちなみに本の発行は2013年9月。S.D.G.の調査を筆者が意識し始めた当初は見ることのできなかったものだ。

この調査時点では、ロマン・ロランと石垣栄蔵とがどうつながっているのかなどという事は筆者にはわからないわけで、『ロマン・ロラン讃歌』というタイトルだけでは、まさか石垣栄蔵に接近できる内容が書いてあるなどとは気付かないままだったろう。その意味でも何の気なしに検索したところでこの本を見つけることができたのはラッキーだった。

「画家石垣栄蔵のこと」

このタイトルを見つけ、藁にもすがる思いで、本を確認したところ、そこには、意外なほど、石垣栄蔵という人物を把握できる記述が多く残されていた。これは、石垣栄蔵の弟、石垣敏夫によって書かれたものだったのである。ここまで近しい人物の筆による石垣栄蔵の経歴とはどのようなものだったか。以下に引用していこう。

実兄栄蔵は結婚前から『ロマン・ロラン研究』誌の装丁をしていた。それは、既に約四十年前からの出来事である。栄蔵はアブストラクト(抽象絵画)をやり始め、絵画を自分の生涯の創造活動としてきた。若い時栄蔵は私に「『ジャン・クリストフ』を読んだらどうか」と言っていた。私は今頃になって栄蔵がロランの何に引かれたのか、考えてみようと思っている。

・石垣が目指したのがアブストラクト作品だということは、装丁・挿絵での仕事からは意外なものだ。

・ネット上にあった『ロマン・ロラン研究』108号(1971)の装丁 古本うしおに堂 より

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こちらのページでは装丁とともに「研究会」と「研究所」の違いについても語られている。ただし、書影の出ている『ロマン・ロラン研究』が、1954年の19号のため、先の引用からすると石垣の装丁ではない可能性が高い。

今の日本では芸術家として生きていくことは至難の業、と聞いている。栄蔵も例外ではない、絵は売れず、(もっとも売る絵を描いていない)生活は辞典の挿絵とか不定期なデザインの仕事で米塩を得ていた。生活が困難の上、連れ合いである妻都夜子が結婚当初からの腎臓病を悪化させ、尿毒症となり、一時は医者に見放されたこともあった。その妻を、絵を描き続けながら献身的に看病し、見事に回復させた。その状況でも個展を十三回開いている

・現時点では辞典の挿絵の実例は見つかっていない(なかなかこれを探すのは困難だろう)が、挿絵が一つの仕事になっていたことがここからもわかる。

・『美術手帖』の28巻405号(1976年3月)p.296:「展覧会案内」というコーナー内で、 「石垣栄蔵展」3月8-14日 東京 村松画廊 という紹介がされている。

一九九七年の夏、兄弟三人で江ノ島にある長男の墓参りに行った時、栄蔵は突然「腹が痛い」という自覚症状を示した。医者に行く費用も無い状態であったが、無理やり近所の医院に連れて行った。その結果大腸癌と診断され、わずか三ヶ月で五八才の生涯を閉じた。妻の看病のためか、生活苦か、創作で無理をしたのかわからない。あっという間の終末であった。それでも入院中ベッドで妻に次の絵の構想を淡々と語っていた。

絵はご覧になった方もいると思うが、モノクロ(白・グレイ・黒)で自分の世界を描いていた。カラーは初期の作品にはあるがほとんどがモノクロ、他に少数だがホワイトセメントを用いた彫刻も数点ある。 「俺が死んだらこのデッサンを専門家に見せれば俺の絵の価値がわかるはずだ」と言っていたそうである。ちなみにデッサンは大型の茶箱、三箱に詰まっている。

・1997年に58才で亡くなったことから石垣栄蔵は1938年か1939年生まれであることがわかる。ということは、創元推理文庫での仕事を担当していた頃(1963年から10年間程度)は、まだ20代半ばだったということになる。

それにしても、58才とは若くして亡くなったものだ…

・「ホワイトセメントの彫刻」、というのが、「赤毛のアン 」の巻末で「トントントン」…と描かれていた創作対象なのだろうか。    

石垣家は兄弟四人いたが父親は戦時中の過労で栄蔵が六歳の時他界し、母親が一人で子供四人を養い、兄弟四人で新聞配達をしたが、とても食ってはいけず、生活保護の世話になり、栄蔵の絵を伸ばすような余裕は全くなかった。 その後、兄弟四人とも栄養不足と過労から結核にかかった。(…)栄蔵は療養を徹底して行ない、医者が驚くほど回復、(【筆者注】胸の)空洞が消え、手術することなく退院できた。退院後数ヶ月してから、運送会社に勤めていたが、絵の創作を捨てきれず、生活上、鈴木画房というデザイン会社に就職した。勤務先は零細企業であるため過酷な労働が続き労働組合を作り、同僚が解雇されることなどあったが、怯まず闘った。栄蔵は職場・労働運動を続けながら、それでも時間を作り、絵を描いていた。

この「鈴木画房」という記述で「もしかして?」 と筆者が想像したことを、ここまでのブログを読んでくれた方なら、納得してもらえるのではないだろうか。ここまでのところ謎のままの「S.D.G.」との関連を疑うに十分だからだ。しかも、石垣は、鈴木画房からは結局抜けることになるのだ。

その頃から「絵をどうしても描きたくなり、職場と両立できない」と言い始めた。 「俺は絵を描かないと、どうしようもなくなるのだ」と言い始めた。自分の絵を社長に預けておいたらストーブで焦がされ「無念で涙が出てしょうがなかった」という話も聞いた。社長も「では半日勤務」ということを提案してくれたが、それは実現せず、絵の道に入った。

S.D.G.の併記⇒石垣栄蔵の単独名義へ、の背景には、この事実が影響した可能性が高いのではないか?想像だけはできるが…

(鈴木画房とS.D.G.の繋がりの有無の調査はしかし、この後、また困難に直面することになる。)

よく「苦悩の後に歓喜がある」と言われているが、栄蔵は苦悩のままであった。しかし、ロランの言う「喜びは一つしかない、創造する喜びがそれだ。創造している者たちが、生きている存在だ」は全うできたと思っている。 栄蔵も都夜子も既に他界している。栄蔵の作品は一〇〇号、二〇〇号の大作他が千駄ヶ谷の家に眠っている。 (二〇一三年二月一八日)

いかがだっただろうか。

時代のせいもあったのだろうが、石垣が、ここまで苦労に見舞われた人生を送ったことは予想していなかったので、個人的には、驚き、呆然とした。「前提となるデータ」の回で示したような、印象的な仕事を初期の創元推理文庫に残した石垣栄蔵であっても、画家として生活していくのは非常に困難だったこと、晩年になっても病院に行くのをためらうくらい困窮したことなどがわかったからだ。

そしてなにより、この文章を読んで初めて、本人が亡くなっていることがわかってしまった。

しかし、そういう人生を送ることは、芸術を仕事にしようとする場合、可能性としては大きい方の結果なのかもしれない。そんな中で、弟君が描かれた

ロランの言う「喜びは一つしかない、創造する喜びがそれだ。創造している者たちが、生きている存在だ」は全うできたと思っている。

という一文、そして「一〇〇号、二〇〇号の大作他」には、これから改めて日の目を浴びる可能性が残されていること(芸術・美術であればそれが可能であること)に、筆者としては救いを感じるところだ。

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